障がい者と生きる
植松聖被告に死刑判決が下った。
4年前、障がい者施設で19名の生命を奪った男。
当時16歳で、障がいがあり同じような施設に通っている兄を持つ私は、事件のニュースを見て、とても他人事とは思えなかった。へらへら笑って送検されていく男の姿に、近くにあったソファを思い切り蹴りつけて怒りを爆発させたのを覚えている。普段、人の名前や物覚えもさほど良くない私が、今日まで男の名を忘れなかった。それ程に憎んだ。部外者の私でこうならば、ご遺族の御気持ちは計り知れない。
その男が、死刑になった。
正直、これで良かったとは思えない部分はある。
死んで許されると思うな、と。
ただ、スっと心が凪いだのも事実。
「あ、終わった。」と。
既にそこら中で出回っているが、あの男はある思想に基づいて犯行に及んでいる。
その思想が、ある種、的を得ているという意見を見かける。
そしてかく言う私も、その思想―動機に関して、頭ごなしに否定することが出来ない。
先にも書いたが、私には兄がいる。
現在26歳だが、言葉を話す事が出来ない。「自閉症」と言われる障がいだ。ただ、単純な言葉を理解することは出来るので五十音表を介して意思疎通ができ、自分の意思で身体を動かすことも出来るので比較的軽度と言える。
伝えたい事が伝わらない時。
伝えたい感情が、パッと言葉にならない時。
兄はそれで、時々爆発する。家族に手を出してしまう。叫びながら家の中を走り回って、止めようとすれば突き飛ばされる。だいぶ落ち着いた今でこそ笑い話に出来るが、兄が爆発すると、父との笑ってはいけないプロレス大会が頻繁に開催されていた。
ほんの一端だが、この環境を当たり前として生きてきた私には、看護や養護・養育の場で起こっている問題について、容易に想像出来る。
男の思想も、理解出来てしまった。
私があの時怒りを覚えたのは、男が笑っていたからじゃなく、どこかでその思想に納得してしまった自分を認めたくなかったからなのではないか?
4年越しに気づいた。
いや、気づかないフリをしていたのかもしれない。
倫理を考えずに言えば、あの男の供述は正しい。それが現場の現実だ。
私が今回の件で一番恐れているのは、模倣犯だ。
本当は兄を施設に通わせたくない。明日、兄が無事に帰ってくる保証はどこにも無い。
あれから男のニュースを耳にする度に、怒りが蘇ってきて動悸が激しくなって、急いでチャンネルを変えたり目を背けてきた。
でもこの事件を「他人事では無い」と言うなら、家族を守りたいと思うならば、もう目を背けてはいけない。